会社は社長の器以上に大きくならない

タイトルの呪縛のような言葉に何度自己叱咤してここまでやってきたか。

フランスで起業したがフランスの日本社会はマーケットが小さく、少しずつ規模を増やすことが出来るが人件費との兼ね合いから煩雑なオペレーションを増やすと命取りになると将来的を見据えて11年目に入るときにフランスの仕事は後進に託し、2社目のチャレンジで日本法人を始めた。

相手はいきなり、日本とアフリカだ。

1997年にフランスへ移住してから2018年まで日本に居なかったので、時折日本に来ていた程度だとこれまた日本人の顔してるのにわからない事ばかりだった。会議といえば最大一時間なんて誰も教えてくれないって。

作って直後からアフリカに振り返り、CISS 大使との出会いからセネガルへ目を向けセネガルで好感触を掴むが、新しい足元である日本において、ファイナンス面がここまで海外へ目が向いていないしかもアフリカが宇宙よりも遠いいとは本当に驚愕だった。

知らないという事は良しも悪しもあるが、「誰もやってない」からが「無理だ」と解釈する日本、結局責任回避する思考のからくる「実践」があるかどうかが判断基準となり「実績ない」=「取り扱えないから無理」と判断してる事もあとからわかった。

まーこの時点でもう少し諦めが早かったらまた違っていたかもしれないが天邪鬼な心からフランスで芝居すると渡仏し結果会社を作り雇用を作り自立した組織が作れてしまった。誰がやっているかこういう事もという自負もあるから、じゃあやってやろうじゃ無いかと、参画メンバーに苦労をかけながら今まで来た。

器といういう意味では境界を上げるという言葉もあるが、社会的立場が高い人と会話をすると初めは緊張で高揚したりするが、サイヤ人では無いがそれからの反省から次こそと踏ん張ると次は素直に話が出来るようにもなったり。

TICAD 7で国家元首を見かけては「畏れ多さ」な雰囲気で近寄ることすら出来なかったが、セネガルで大統領と握手し少しだが直接の会話をした事でだいぶ胆力が鍛えられた。そう、ぼくは相当のチキン野郎だったからね。

まー、それからはセネガルでは大臣クラスとも話が少しは楽になり、事務次官や局長クラスなら緊張感はなくなった。自らの作った会社ブランディングでここまで来れたことに嬉しさも持つ。

そして日本でも投稿しているように、大会社の会長社長や議員さん内閣副官房長官などともお話しする機会を頂きまたもやチキン野郎が顔を覗かすが、おかげさまで相手が日本人であっても緊張は段々としなくなってきた。

「アフリカのセネガル保健省を説き伏せMOUを締結し未電化村落の診療所10箇所へ全て自助努力と自費で仲間と全てやってきた。」

そうですか、それでトラクションは?

と言わせつづけていたが、実務思考でないもう少し上の立場の方々にようやくその価値をわかってもらえるようになりこれは嬉しい。

普通にこなしているように思うが、大臣クラスとの面談はプロトコル的に日本も大臣クラスが会う事でバランスが取れる。在京大使も全権大使なので天皇・首相ともお会いできる立場に置かれている。

会社をなんのために大きくするかというのはまさしく論語と算盤であるが、アフリカの広い大地のデジタルインフラを進める事で多くの人達がより良い自立した生活が送れる様になるわけで、そこへの日本式の底支え力は世界に類を見ない力なのだ。

その為に雇用を増やしていくのに収益も必要だし新たな投資が必要にもなる。

徐々に公共性を持った事業へと発展させたいと考え始めたが、やはり誰にも理解がされないとしても「こう絶対あるべき」と見えた現実があるので有ればそのミライから逆算した今からそこへ向かって諦めずに進むのが良いと今でも思うしそれをやってきて良かったと心から思える。

三年前の自分と比較しても今はだいぶ成長したと思える。まだ世間はついてこないけど間違いなくセネガルやアフリカは僕らの実現化を待ってるしそこに、安全に生まれて未来を作る人材も生まれてる事を待ってるだろう。

僕の会社は、私の会社はこのくらいで良いの。

な思考でも良いが、僕も起業二週目の48歳であり、次の人材育成を同時にしつつ、描いた未来に繋ぐためにも出来るだけ標準化をすすめ、フランスで成功したように僕がいなくとも安定した企業グループとしないとならない。

そのために社長は器をむりくりにでも広げないとならない。と僕は僕自身に対して今も思っている。

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