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生まれ
小学生でバックパッカー(沖縄編)
灰谷健次郎の「太陽の子」を読み、物語の中で、ふうちゃんが過ごす情景が心を打ち、ますます気持ちが「行かなければ」位になってしまい、親父に相談した。
当時はパソコン通信もインターネットなどない時代。
パックツアーのカタログを見るが、自由に動けないし興味が持てなかったので、親にも自分にも驚くが、10万円だけ用意してもらって、一人好きに計画を立て、電車は時刻表をしげしげ見てみどりの窓口で予約し、飛行機は割引の効くスカイメイトに入った後、どこかでチケットを買った。
選んだコースの行きは、当時乗ってみたかった「ブルートレイン」の寝台特急「あさかぜ」で下関まで三等寝台で行き、博多までローカル電車で移動し、そこから福岡ー沖縄を空路で飛んだ。
寝台特急「あさかぜ」(出典Wiki)
当時は12歳なわけで、沖縄返還と1日違いに生まれたので、返還後12年という頃の沖縄。めんそーれ沖縄の文字を空港で見て、空港を出ると、ドンと戦車が金網の向こうに鎮座し、単純に初めて見たもんだから「すげぇ」と思い、那覇空港から名護までバスに乗り、国民宿舎泊。朝食のラフティーが美味しかった。今帰仁には行きたかったがよく考えたら時間がなく行けなかった。
嘉手納では米軍基地の広さにビビり、民宿に泊まり(傘を忘れ親に後日怒られw)、国際通りなどでは、さすがそこの頃は小学校な訳で、時々ゲーセンに入っては1942というシューティングゲームやったり、そんなことも楽しい思い出。それと、三国志を初めて買ったのも国際通りだったな。
南に下ってはひめゆりの塔など周り、ユースホステルを渡り歩き、南部を回る中、前世は俺はこの土地で死んだんだって思った。玉泉洞には時間切れで入れず泣いた記憶が。
ちなみに当時はANAが鷲尾いさ子をキャンペーン契約をしており、少年だけにドキドキしていたっけ。でも結局はパッケージではなく勝手に買ったチケットだったので、乗ったのは福岡からのJAL便。
帰りは京都まで空路で京都へ。市内をちょっと見て、青春18切符で鈍行にて横浜に戻る。自分で考えてもこの頃からやりたいと思う事への、行動力はあったようだ。
最後の鈍行で当時のポケットカメラを電車に忘れて、残念ながら沖縄の写真は一枚も残っていない。
そんな感じの小学生を終えた。
中学高校は海外に縁もなく、特筆する様なことはない。
大学受験失敗、高校卒業後、就職
大学受験がうまくいかず高校卒業と同時に就職。
ここで大学に受かっていたら全く違う人生を歩んでいたと今でも思う。
当時はデジカメもないので写真を探してみると、横浜の大黒ふ頭勤務だった頃に奴が出てきて、なぜか唯一残ってる写真は年末の大掃除。
各机にパソコンのない時代、どうやって仕事をしたいたのか。
23歳でバックパッカー(欧州編)
野毛でくだを巻く上司に自分の未来が見えてしまい、こんな40代になりたくない。もっと自由に生きたいと、若い時に出来ることをやっとかないと考え会社を悩んだ末に退職し、バックパッカーで半年を欧州全域を周った。
一旦帰国し、資金を貯める。
旅の後半、居着いたパリが気に入り、一旦日本に戻り資金を貯蓄しフランスへ留学。留学のテーマは舞台役者。この2年間にフランス人の突き抜けた学生達とバカな事やバカンスの過ごし方、世代の関係ない付き合い方、激しい喧嘩をしたのち更に仲良くなる景色。いろいろ学びしかなかった。
私設劇団にも入り、対人コミュニケーションが上手になった。初めからカメラが相手だとこうはいかない。
妻と出会い、パリで結婚。
そこで今の妻(日本人)と出会い、パリでフランス式の婚姻手続きで結婚。
NTT Franceに海外就職。
再度サラリーマンを卒業
パリで起業
日本の大学を卒業しました。
産能大学学長と。元富士通で長くロンドン駐在だったとか。
フランスから逆進出の形で日本法人を設立。
グループ戦略は2ステップ 1、日仏貿易の促進 2、日本ーアフリカの貿易促進
大学院でベンチャーメネージメントを学ぶ
現在は途上国のUHC(保健衛生)課題解決ビジネス推進。
そして人生は続く。
作成:2019年5月23日
更新:2019年6月6日